▲ウィリアムモリス アーツ&クラフツ
19世紀にはイギリスを代表する詩人として知られ、20世紀には「モダンデザインの父」として称されたウィリアム・モリスは、他にも工芸家、社会主義運動家などとしても大変有名な人物です。
アーツ&クラフツ運動も有名で、日本にも1920年に伝わってきています。
19世紀イギリスでは、産業革命により社会経済は資本主義へと移行し、中世から培われてきたギルド(品質向上や価格の安定等を守るための職業別組合)による手工業は失われていきました。このような中、彼が中世の手工業に理想を見出し、芸術を生活の場に浸透させていくことを理想とし、インテリアや家具のデザイン、書籍を制作するケルムスコット・プレス社を創設するなど幅広い活動でその実現を目指したのがアーツ&クラフツ運動です。
ウィリアムモリスがなぜこのような思想をもち、行動していったのか、彼の生い立ちを少し見てみましょう。
彼は1834年ロンドン北東の郊外ウォルサムストウで裕福な家に生まれました。家は簡素でしたが広壮な住宅で、南に広がる広大な芝生の庭、キッチンガーデンは低木に囲まれ、ヤマグワの樹が大きな影を落としていたそうです。そのお屋敷が「エルムハウス」と呼ばれていました。(エルムは楡(ニレ)です。)
彼は何度も住まいを移りましたが、すべてが大邸宅で、名前が付いていました。
(ヨーロッパの多くの国では番地ができるまで、家に名前を付けていました。住人ではなく家の名前です。特にイギリスでは上流階級が数百年前から始め、その家系の肩書に由来する名前を付けていましたが、近年は誰でも自由に付けられるようになりました。番地が導入されると、次第にその文化は薄らいでいきました。)
6歳の時に移った「ウッドフォード・ホール」、13歳、父の他界後に移った「ウォーターハウス」(小さくなったようですが、邸宅レベルです)、新婚時の「レッド・ハウス」、「ホリントン・ハウス」、終の棲家「クルムスコット・ハウス」など。
例えば「ウッドフォード・ホール」は約20万平方メートルの公園のような敷地に立つ大邸宅で、その家と庭園はエビングの森の緑で縁取られていました。
父親がビジネスで成功し、父が亡き後はその莫大な資産を引き継ぎ、生涯恵まれた環境で生活ができた彼は、常に自然と共にあり、自分の探求心と向き合える環境の中にいました。
14歳の時、マールバラ校というパブリックスクールに入学し寄宿舎生活を始めましたが、4年後に自主退学をしました。当時は、優等生タイプではなく、ノートの端に多くの絵を描き、授業中に詩や物語を書き、手芸などもして、常に何かを作っていないと満足できないタイプだったようです。
生まれもった才能と環境が、私たちが今日知るウィリアムモリスをつくっていったのかと想うと、この先、彼の作品をもっと味わえる気がして楽しくなりますね。
上の画像はアーツ&クラフツ作品のひとつです。ターコイズは12月の誕生石、和名はトルコ石です。トルコでよく採れる訳ではなく、昔、トルコの商人たちが貿易品としてヨーロッパに持ち込んだことから、「トルコ人の石」という意味でそう呼ばれたようです。
そして商人の旅のお守りとしてラクダの首にこの石をかけていたことから、ターコイズは旅の護り石として世界中に知られるようになりました。諸説ありますが、強い守護のパワーを持ち、邪気をそらして持ち主を厄災から守ってくれると伝えられています。
台座の縁にも細やかな装飾が施され、全体のラインが美しく、さり気ないお洒落ができそうですね。
さて、ウイリアムモリスの歴史のひとコマは、いかがでしたか?今までとはちょっと違う目で、ウイリアムモリス・アーツ&クラフツのアイテムを楽しんで頂けると幸いです。
▲老舗バーレイ社 ブルーアジアティックフェザンツ
1851年に設立したバーレイ社(正式名Burgess & Leigh社を略してBurleigh社)は、来年で創業170年を迎える歴史ある陶磁器メーカーです。
バーレイ社は、イギリスで200年以上前に開発された銅板印刷を使う世界で最後のメーカーでもあります。
銅板印刷とは、銅版に彫った図案を転写紙に印刷し、一点ずつ手作業で陶器の表面に貼りつけていくことです。バーレイ社の商品は熟練の職人による手作業で製造されており、インクのむらや転写紙の付き方が1点1点異なっているのが深い味わいとなっています。
日本にも、19世紀半ばに銅板転写が伝わり、瀬戸・美濃地方で試みたのですが量産の特質を生かすまでに至らず、短期間で終わりました。しかし明治中期に再興し、技術的にも改良され、量産向き技法として各地の磁器窯で流行しました。銅板転写による製品の多くは日用雑器がほとんどで、一般家庭でよく使われていたようです。
おそらく当時のイギリスでも、アジアティックフェザンツは一般家庭で親しまれていた可能性があります。「絵柄」と「青色」から、当時を想像してみましょう。
まず絵柄は高麗キジと牡丹が描かれています。これは東洋文化への憧れの表れです。
どの時代も人々は異文化への憧れや興味をもちます。
西洋に東洋(特に中国)の文化が伝わったのはかなり古い歴史がありますが、13世紀末、マルコポーロの「東方見聞録」によって一気に東洋への憧れが加速していきました。そして王族や貴族は東洋の絹織物や陶器、美術品などを収集し富の象徴としました。
このように当時の東洋の美術品などは高価で一部の人にしか手に入らないため、「ならば、自分で創ろう」という人が現れ、東洋の文化をリスペクトしたうえで、更に自分たちの文化を取り入れて新しいものを生み出しました。コピーではなく、「オマージュ」ですね。
とはいえ、まだまだ高価だったので一般家庭に浸透するには、産業革命が大きなキッカケになったと思います。
その理由が「青色」です。
突然ですが問題です♪クレオパトラ(7世)のアイシャドウは何色でしょう?
話の流れから「青色」になるのですが(^^♪
このアイシャドウの青色は、「ラピスラズリ」という鉱石が原料です。
紀元前から「ラピスラズリ」には不思議な力があると信じられていました。ツタンカーメンの黄金のマスクにもラピスラズリがふんだんに使われています。古代エジプトでは他にも、死者を悼むための演出に使ったり、母なるナイル川を表現するためなど、欠かせないものでした。
しかし、良質なラピスラズリが採れるのはアフガニスタンに集中していました。不思議な力をもつと信じられ、希少で更に輸入でしか手に入らないため、その価値は金と並ぶこともありました。当然、王族や貴族には富の象徴となる訳です。(イギリス皇室の公式カラーはロイヤルブルーですが、関連があるかもしれませんね。)
ラピスラズリを原料とした青色を「ウルトラマリン」と呼びます。こういった背景から、ウルトラマリンは高貴な色として人々に認識されていきます。
ウルトラマリンの顔料は高価で、ヨーロッパの芸術家たちもこの顔料をめったに使うことはできませんでした。色のイメージは、フェルメールの絵が分かりやすいですね。「真珠の耳飾りの少女」「牛乳を注ぐ女」等に使われています。ちなみに、フェルメールがウルトラマリンを使えたのは、裕福な義母とパトロンがいたからだと言われています。
さて、バーレイ社の設立は1851年、産業革命の終盤です。永い間、他の方法で青色を作ることはできましたが、この産業革命で合成顔料が大きく発展し、前述のようにラピスラズリが高価だったことから、特に青の顔料をより安価に製造する努力がなされ実現しました。
それによって、一般市民の日常生活に青色が登場したのです。日常に色が増える感覚…今では想像することさえ難しいです。
前述のウイリアムモリスのように産業革命で失くしたものを取り戻そうとする考えもあれば、日常に色が増えて喜ぶ人もいたり、いつの時代も表裏一体ですね。
現在バーレイ社のコクレクションはアジアティックフェザンツをはじめ、キャリコ、リーガルピーコック、アーデンなどがあります。「アジアティックフェザンツ」シリーズは1856年に始まり、バーレイ社の中でも最もファンの多い代表的なコクレクションです。色は柔らかい色合いのブルー、ピンク、大人の色合い紫の3種類が代表的で、日本向けに作られたグリーンの商品もあります。
約170年も企業を続けていくのは大変なことです。バーレイ社も工場の老朽化が進み、保護を目的にチャールズ皇太子財団に買取られました。3年もの月日と莫大な費用をかけて修繕され2014年にリニューアルオープンしました。現在も、職人たちが昔のままの手作りで制作しています。
これほど親しまれ歴史を築いてきたバーレイ社、末永く続いてほしいです。
さて、チェルシーオールドで扱うアジアティックフェザンツは、もちろんアンティークのものばかりです。当時も今も手法は同じですが、アンティークならではの風合いも加味して更に味わいある食器ばかりです。
ぜひチェックしてみてください。
▲シャビーシックの青色
Shabby chic。「Shabby」とは粗末な、着古した、みすぼらしいといった意味。「Chic」には優雅な、あか抜けた等の意味があります。「Shabby」だけではあまり良い意味ではありませんが、「Chic」を合わせることで味のあるエイジング感と優雅さを兼ね備えたセンスの良い感じを連想させます。
そんなシャビーシックという言葉には生みの親がいます。1989年にレイチェル・アシュウェルというイギリス人がサンタモニカにライフスタイルショップ(Shabby chic)をオープンしたことが始まりです。
レイチェルは結婚をしてイギリスからアメリカへ移住した後に離婚。シングルマザーとして生活をしていかなければなりません。昼間の仕事だけでは大変だった彼女は、もともと好きだったアンティークを蚤の市などで仕入れ、修理やペイントをしてガレージセールなどでの販売をしました。
手に入れたアンティークを自分が出来る範囲で補修したりペイントをして商品にしました。それがアメリカ人には新鮮だったのか、仕上がりのセンスが良かったのでしょう。お店は大きくなり、現在は閉店しましたが東京にも彼女の店舗がありました。
実はレイチェルの母親は人形や手芸品などのリメイクを仕事にしており、幼い頃の子守歌はミシンの音だったと自身のブログでも書いていました。朽ちたものが母の手で息を吹き返し、美しくきれいに仕上がっていくのを間近に見ていた訳です。こういう仕事をするのも不思議ではありませんね。
さて、レイチェルは約30年前にシャビーシックという名の店を開いてそのスタイルと言葉が定着した訳ですが、チェルシーオールドには約100年前のお品が揃っています。シャビーシックという言葉が有名になるまでは、「フレンチカントリー」「フレンチガーリー」「プロヴァンス風」など…他の表現が使われていたのでしょう。チェルシーオールドがオープンした時には、既にシャビーシックという言葉が存在していたので、私たちも使っています。
チェルシーオールドのオフィスは白い漆喰の壁にステンドグラスが入り、2つのアンティークの扉はブルーペイント、ホワイトペイントが施されています。まさにシャビーシックなオフィスです。白い壁にブルーのペイントはよく合い、フランスの田舎町、プロヴァンスの街並みを日々想像しながら業務に励んでいます♪
<上記写真の商品はSOLDとなっております。ご了承ください。>